ねこ…。
「オスだから、テリトリー外へ巣立った。」
と思ったのは、違っていた事を知った。
居ないと思ってから「独り立ちしたのだ」と思い込ませて
日がたっていたせいか、すぐには落ち込まなかったが…
「あんなにらぶらぶだったのが…あんなに急に出て行っちゃうものなのかー」
というのが「違っていたんだ…」と思うのが何よりも辛い。
やっぱじわじわと思いはぶり返す。
自分の姿を見つけるや、真っ直ぐと目を見てトトトと外から走ってくるあの姿…。
クソ暑いのに膝の上で寝たがる。夜一匹になると2階まで上がって来て近くで寝る。
オスのくせにこんなにでろでろで大丈夫なんだろうかと、人間目で見ている自分に引。
やっぱ、まだ「どこかで元気にやってるんだろうかなあ…。」
と思っていたほうが、よかったかもな。
自分、
いまだにどちらがいいのだろうと思うことがある。
何かしらの理由で家で待つ者と、行かねばならぬ者が出来たとする。
その行った者がもう二度と戻れぬ事となったとき、
家でその人の元気で生きて戻ることを願い日々を待ちつづけている人にとって、
事実を知らないままに、実際は希望無けれども本人は希望を胸に生きることと、
事実を知らされて、明日への前にまず絶望を迎えねばならぬことと。
人間という生き物は、何か悲劇を知る前と後とで
一気に天地の差の心境を感じることあってしまう生物で。
悲劇を知らなければ、それまでの平常だったり、笑顔だったりが
まだ継続できたであろうに。その悲劇をもし知らなければ…
その方が幸せなのだろうか…。と、思うことが ある。
個人的には、事実を知らせない事の方が悪いと思う方だが、
知らせるべき相手にとって、どっちを望む事なのかは、少しは
くむべき事なのかも知れないなと思う…。
でも、実際の所、お互い辛くとも知る方が正しいのだろう…
知る権利というか、知らなければならないことではある。
がだ。
自分に置き換えた場合だよ。
絶対に生きて戻るのだ、あるいは、今は帰れなくてもどこかで生きているのだと
本気で大切に思う人の悲劇を、受け入れる事ができるだろうか…と。
うそでも、身勝手でも、生きていると思いつづけるほうがいいのではないかと…。
ねこ程度でこんなんなのに、人間だったらどうなんだよと。
ん~…でも、
事実を知らないからと、思う人の弔いをやらない方が、
本当に大切の思う人へ申し訳ないことなのかな。
一応、「嫌な事は聞きたくない。」という事とはちょっと違う所の
話のつもりだったのだけど…、根本的には同じなのかな…。
…人ってほんと、なんなんだろね…。